本質御書!!!

【1】御義口伝 御書708ページ・新版984ページ

☆「妙」とは法性なり。「法」とは無明なり。無明・法性一体なるを妙法と云うなり

☆「蓮華」とは因果の二法なり。これまた因果一体なり

☆「経」とは一切衆生の言語音声を経と云うなり。釈に云わく「声、仏事をなす。これを名づけて経となす」。あるいは三世常恒なるを経と云うなり。法界は妙法なり。法界は蓮華なり。法界は経なり。

【2】御講聞書 御書808ページ・新版1122ページ

☆「蓮華」とは、本因本果なり。

☆本因の因というは、下種の題目なり。本果の果とは、成仏なり。因というは、信心領納のことなり。この経を持ち奉る時を、本因とす。その本因のまま成仏なりというを本果とはいうなり。

☆本因は、慧の因にして名字即の位なり。本果は、果にして究竟即の位なり。究竟即とは、九識本覚の異名なり。九識本法の都とは、法華の行者の住所なり

【3】御義口伝 御書709ページ・新版986ページ

☆「法体」とは、南無妙法蓮華経なり

☆「法体」とは、心ということなり。法とは、諸法なり。諸法の心ということなり。諸法の心とは、妙法蓮華経なり

【4】御義口伝 御書711ページ・新版989ページ

☆法体とは本有常住なり、一切衆生の慈悲心これなり

【5】御義口伝 御書712ページ・新版991ページ

☆今、日蓮等の類い、聖霊を訪う時、法華経を読誦し南無妙法蓮華経と唱え奉る時、題目の光無間に至って即身成仏せしむ。回向の文、これより事起こるなり。法華不信の人は「堕在無間(無間に堕在す)」なれども、題目の光をもって、孝子、法華の行者として訪わんに、あにこの義に替わるべけんや

【6】御義口伝 御書716ページ・新版997ページ

☆我らが頭は妙なり。喉は法なり。胸は蓮なり。胎は華なり。足は経なり。この五尺の身、妙法蓮華経の五字なり

☆この大事を説かんがために、仏は世に出でたもう。我らが一身は妙法五字なりと「開仏知見(仏知見を開く)」する時、即身成仏するなり。「開」とは、信心の異名なり。信心をもって妙法を唱え奉らば、やがて開仏知見するなり。しかるあいだ、信心を開く時、南無妙法蓮華経

【7】御義口伝 御書717ページ・新版998ページ

☆仏とは九界の衆生のことなり。

☆南無妙法蓮華経これなり。この五字は、日蓮出世の本懐なり

【8】御義口伝 御書720ページ・新版1003ページ

☆如我等無異 如我昔所願

☆御義口伝に云わく、「我」とは釈尊、「我実成仏久遠(我実に成仏してより久遠なり)」の仏なり。この本門の釈尊は、我ら衆生のことなり

☆この我らを寿量品に無作の三身と説きたるなり。今、日蓮等の類い、南無妙法蓮華経と唱うる者これなり

【9】三大秘法禀承事 御書1,022ページ・新版1386ページ

☆三大秘法、その体いかん。答えて云わく、予が己心の大事これにしかず。汝が志無二なれば、少しこれを云わん。寿量品に建立するところの本尊とは、五百塵点の当初より以来、此土有縁深厚、本有無作の三身の教主釈尊これなり

【10】船守弥三郎許御書 1,446ページ・新版1723ページ

☆過去久遠五百塵点のそのかみ「唯我一人」の教主釈尊とは、我ら衆生のことなり

【11】御義口伝 御書730ページ・新版1018、1019ページ

☆「我観一切 普皆平等 無有彼此 愛憎之心 我無貪著 亦無限礙(我は一切を観ること、あまねく皆平等にして、彼此・愛憎の心有ることなし。我に貪著無く、また限礙無し)」の事

☆「我観一切 普皆平等」とは、九識なり

☆今、日蓮等の類い、南無妙法蓮華経と唱え奉る者は、あに「我観一切 普皆平等」の九識の修行にあらずや。しかれば、「無有彼此」にあらずや。「愛憎之心」にあらずや。「我無貪著」にあらずや。「亦無限礙」にあらずや。

【12】御義口伝 御書736ページ・新版1026ページ

☆第一「法師」の事 御義口伝に云わく、「法」とは、諸法なり。「師」とは、諸法が直ちに師と成るなり。森羅三千の諸法が直ちに師と成り弟子となるべきなり。今、日蓮等の類い、南無妙法蓮華経と唱え奉る者は、法師の中の大法師なり。諸法実相の開覚顕れて見れば、地獄の灯燃猛火、乃至仏果に至るまで、ことごとく具足して一念三千の法師なり。また云わく、「法」とは題目、「師」とは日蓮等の類いなり。

第二 「成就大願、愍衆生故、生於悪世、広演此経(大願を成就して、衆生を愍れむが故に、悪世に生まれて、広くこの経を演ぶ)」の事 御義口伝に云わく、「大願」とは、法華弘通なり。「愍衆生故」とは、日本国の一切衆生なり。「生於悪世」の人とは、日蓮等の類いなり。「広」とは、南閻浮提なり。「此経」とは、題目なり。今、日蓮等の類い、南無妙法蓮華経と唱え奉る者なり。

第三 「如来所遣、行如来事(如来に遣わされて、如来の事を行ず)」の事 御義口伝に云わく、法華の行者は如来の使いに来れり。「如来」とは釈迦、「如来事」とは南無妙法蓮華経なり。「如来」とは、十界三千の衆生のことなり。今、日蓮等の類い、南無妙法蓮華経と唱え奉るは、真実の御使いなり

 ☆「与如来共宿(如来とともに宿す)」の事  御義口伝に云わく、法華の行者は、男女共に「如来」なり。煩悩即菩提・生死即涅槃なり。今、日蓮等の類い、南無妙法蓮華経と唱え奉る者は、「与如来共宿」の者なり。傅大士の釈に云わく「朝々仏とともに起き、夕々仏とともに臥す。時々に成道し、時々に顕本す」

【13】御義口伝 御書740ページ・新版1031、1032ページ

☆我らが生老病死に南無妙法蓮華経と唱え奉るは、しかしながら「四徳の香を吹く」なり。「南無」とは楽波羅蜜、「妙法」とは我波羅蜜、「蓮華」とは浄波羅蜜、「経」とは常波羅蜜なり

☆御義口伝に云わく、「宝浄世界」とは、我らが母の胎内なり。「有仏」とは、諸法実相の仏なり

☆煩悩の淤泥の中に真如の仏あり。我ら衆生のことなり。今、日蓮等の類い、南無妙法蓮華経と唱え奉るを、当体蓮華の仏と云うなり

【14】御義口伝 御書742ページ・新版1035ページ

☆「若有能持 則持仏身(もし能く持つことあらば、則ち仏身を持つ)」の事 御義口伝に云わく、法華経を持ち奉るとは、我が身は仏身なりと持つなり。「則」の一字は生仏不二なり。 上の「能持」の「持」は、凡夫なり。持つ体は妙法の五字なり。「仏身を持つ」と云うは、一々文々皆金色の仏体の故なり。さて、仏身を持つとは、我が身の外に仏無しと持つを云うなり。理即の凡夫と究竟即の仏と二無きなり。

☆御義口伝に云わく、この法華経を持つ者は、難に値わんと心得て持つなり。されば、「則為疾得 無上仏道(則ちこれ疾く無上の仏道を得ん)」の成仏は、今、日蓮等の類い、南無妙法蓮華経と唱え奉る、これなり

【15】御義口伝 御書744ページ・新版1037、1038ページ

☆「提婆」は妙法蓮華経の別名なり。過去の時に「阿私仙人」なり。「阿私仙人」とは、妙法の異名なり。

☆今、日蓮等の類い、南無妙法蓮華経と唱え奉る者は、日蓮に違わずして宣説すべきなり。「阿私仙人」とは、南無妙法蓮華経なり

☆ 採菓汲水、拾薪設食(菓を採り水を汲み、薪を拾い食を設く)

【16】御義口伝 御書752ページ・新版1048ページ

☆「南無妙法蓮華経如来寿量品

第十六」の事

☆今、日蓮等の類いの意は、総じては「如来」とは一切衆生なり、別しては日蓮の弟子檀那なり。されば、無作の三身とは、末法の法華経の行者なり。無作の三身の宝号を、「南無妙法蓮華経」と云うなり。寿量品の事の三大事とは、これなり。六即の配立の時は、この品の如来は理即の凡夫なり。頭に南無妙法蓮華経を頂戴し奉る時、名字即なり。その故は、始めて聞くところの題目なるが故なり。聞き奉って修行するは、観行即なり。この観行即とは、事の一念三千の本尊を観ずるなり。さて、惑障を伏するを、相似即と云うなり。化他に出ずるを、分真即と云うなり。無作の三身の仏なりと究竟したるを、究竟即の仏とは云うなり。総じて伏惑をもって寿量品の極とせず。ただ凡夫の当体、本有のままを、この品の極理と心得べきなり。無作の三身の所作は何物ぞという時、南無妙法蓮華経なり

【17】御義口伝 御書753ページ・新版1049、1050ページ

☆今、日蓮等の類いの意は、即身成仏と開覚するを、「如来秘密・神通之力」とは云うなり。成仏するより外の「神通」と「秘密」とはこれ無きなり。この無作の三身をば、一字をもって得たり。いわゆる「信」の一字なり。

 ☆「我実成仏已来、無量無辺(我は実に成仏してより已来、無量無辺なり)」等の事 御義口伝に云わく、「我」とは、釈尊の久遠実成道なりということを説かれたり。しかりといえども、当品の意は、「我」とは、法界の衆生なり。十界己々を指して「我」と云うなり。「実」とは、無作の三身の仏なりと定めたり。これを「実」と云うなり。「成」とは、能成・所成なり。「成」は開く義なり。法界は無作の三身の仏なりと開きたり。「仏」とは、これを覚知するを云うなり。「已」とは、過去なり。「来」とは、未来なり。「已来」の言の中に現在は有るなり。我実と成けたる仏にして、已も来も、無量なり無辺なり

☆今、日蓮等の類い、南無妙法蓮華経と唱え奉る者は、寿量品の本主なり

☆生死を見て厭離するを、迷いと云い、始覚と云うなり。さて、本有の生死と知見するを、悟りと云い、本覚と云うなり。今、日蓮等の類い、南無妙法蓮華経と唱え奉る時、本有の生死、本有の退出と開覚するなり

【18】御義口伝 御書754ページ・新版1051ページ

☆「無」「死」「退」「滅」は無作の報身なり、「有」「生」「出」「在」は無作の応身なり、「如来如実」は無作の法身なり。この三身は我が一身なり。「一身即三身を名づけて『秘』となす」とは、これなり。「三身即一身を名づけて『密』となす」もこの意なり。しかれば、無作の三身の当体蓮華の仏とは、日蓮が弟子檀那等なり。南無妙法蓮華経の宝号を持ち奉るが故なり

【19】御義口伝 御書755ページ・新版1052、1053ページ

☆「此大良薬、色・香・美味、皆悉具足(この大良薬は、色・香・美味、みな具足せり)」と説かれたり。「皆悉」の二字は、万行万善・諸波羅蜜を具足したる大良薬たる南無妙法蓮華経なり。「色・香」等とは、「一色一香も中道にあらざることなし」にして草木成仏なり。されば、題目の五字に一法として具足せずということなし。もし服する者は、「速除苦悩(速やかに苦悩を除く)」なり。されば、妙法の大良薬を服する者は、貪・瞋・癡の三毒の煩悩の病患を除くなり。法華の行者、南無妙法蓮華経と唱え奉る者は、謗法の供養を受けざるは、貪欲の病を除くなり。

法華の行者は、罵詈せらるれども忍辱を行ずるは、瞋恚の病を除くなり。法華経の行者は、「是人於仏道 決定無有疑(この人は仏道において、決定して疑いあることなけん)」と成仏を知るは、愚癡の煩悩を治するなり。されば、大良薬は末法の成仏の甘露なり。今、日蓮等の類い、南無妙法蓮華経と唱え奉るは、大良薬の本主なり

【20】御義口伝 御書756ページ・新版1053、1054ページ

☆「服」とは、唱え奉ることなり。服するより無作の三身なり。始成正覚の病患差ゆるなり。今、日蓮等の類い、南無妙法蓮華経と唱え奉る、これなり。

☆「我」は法身、「仏」は報身、「来」は応身なり

☆今、日蓮等の類い、南無妙法蓮華経と唱え奉るは、「自我得仏来」の行者なり

【21】御義口伝 御書758・新版1057ページ

☆一切衆生の念々、皆これ自受用報身の智なり。これを念とは云うなり。今、日蓮等の類い、南無妙法蓮華経と唱え奉る念は、大慈悲の念なり云々。

☆「得入無上道(無上道に入ることを得)」等の事  御義口伝に云わく、「無上道」とは、寿量品の無作の三身なり。この外に「成就仏身(仏身を成就す)」これ無し。今、日蓮等の類い、南無妙法蓮華経と唱え奉る者は、「成就仏身」疑いなきなり

【22】御義口伝 御書759ページ・新版1058ページ

☆自受用身とは、一念三千なり。伝教云わく「一念三千即自受用身。自受用身とは、尊形を出でたる仏なり」。「尊形を出でたる仏」とは、無作の三身ということなり云云。今、日蓮等の類い、南無妙法蓮華経と唱え奉る者、これなり

☆御義口伝に云わく、この品の所詮は「久遠実成」なり。「久遠」とは、はたらかさず、つくろわず、もとのままという義なり

【23】御義口伝 御書760ページ・新版1059、1060ページ

☆ 建立御本尊等の事 御義口伝に云わく、この本尊の依文とは、「如来秘密・神通之力」の文なり。戒・定・慧の三学は、寿量品の事の三大秘法これなり。日蓮たしかに霊山において面授口決せしなり。本尊とは、法華経の行者の一身の当体なり

【24】御義口伝 御書761ページ・新版1061ページ

☆「喜」とは、自他共に喜ぶことなり

☆自他共に智慧と慈悲と有るを、「喜」とは云うなり。詮ずるところ、今、日蓮等の類い、南無妙法蓮華経と唱え奉る時、必ず無作の三身の仏に成るを、「喜」とは云うなり

【25】御義口伝 御書762ページ・新版1062ページ

☆「功徳」とは、「六根清浄」の果報なり。詮ずるところ、今、日蓮等の類い、南無妙法蓮華経と唱え奉る者は、「六根清浄」なり。されば、妙法蓮華経の法師と成って大いなる徳い有るなり。「功」も幸いということなり。または、悪を滅するを「功」と云い、善を生ずるを「徳」と云うなり。「功徳」とは、即身成仏なり。

【26】御義口伝 御書764ページ・新版1064、1065ページ

☆仏性とは、法性なり。法性とは、妙法蓮華経なり

☆「我深敬汝等、不敢軽慢。所以者何、汝等皆行菩薩道、当得作仏(我は深く汝等を敬い、あえて軽慢せず。所以はいかん、汝等は皆菩薩の道を行じて、当に作仏することを得べければなり)」の事 御義口伝に云わく、この二十四字と妙法の五字は替われども、その意はこれ同じ。二十四字は略法華経なり。

【27】

御書766ページ・新版1067ページ

☆末法の「仏」とは、凡夫なり、凡夫僧なり。「法」とは、題目なり。「僧」とは、我ら行者なり。仏とも云われ、また凡夫僧とも云わるるなり

御義口伝 御書768ページ・新版1070ページ

☆御義口伝に云わく、自他の隔意を立てて、彼は上慢の四衆、我は不軽と云い、不軽は善人、上慢は悪人と善悪を立つるは、無明なり。ここに立って礼拝の行を成す時、善悪不二・邪正一如の南無妙法蓮華経と礼拝するなり

【28】御義口伝 御書769ページ・新版1071ページ

☆法界が法界を礼拝するなり。自他不二の礼拝なり。その故は、不軽菩薩の四衆を礼拝すれば、上慢の四衆の具うるところの仏性もまた不軽菩薩を礼拝するなり。鏡に向かって礼拝をなす時、浮かべる影また我を礼拝するなり

【29】御義口伝 御書771ページ・新版1073ページ

☆御義口伝に云わく、本化弘通の妙法蓮華経を大忍辱の力をもって弘通するを、「娑婆」と云うなり。「忍辱」は、寂光土なり。この忍辱の心を、「釈迦牟尼仏」といえり。「娑婆」とは、堪忍世界と云うなり

【30】御義口伝 御書781ページ・新版1086ページ

☆「此人不久当詣道場(この人は久しからずして当に道場に詣るべし)」の事  御義口伝に云わく、「此人」とは、法華経の行者なり。法華経を持ち奉る処を、「当詣道場」と云うなり。ここを去ってかしこに行くにはあらざるなり。「道場」とは、十界の衆生の住所を云うなり。今、日蓮等の類い、南無妙法蓮華経と唱え奉る者の住所は、山谷曠野、皆、寂光土なり。これを「道場」と云うなり。「この因易わることなきが故に、『直至(直ちに至る)』と云う」の釈、これを思うべし。

  この品の時、最上第一の相伝あり。釈尊、八箇年の法華経を八字に留めて末代の衆生に譲りたもうなり。八字とは「当起遠迎、当如敬仏(当に起って遠く迎うべきこと、当に仏を敬うがごとくすべし)」の文なり。この文までにて経は終わるなり。「当」の字は未来なり。「当起遠迎」とは、必ず仏のごとくに法華経の行者を敬うべしという経文なり

【31】御義口伝 御書784ページ・新版1090ページ

☆本門の心は無作の三身を談ず。この無作の三身とは、仏の上ばかりにしてこれを云わず。森羅万法を自受用身の自体顕照と談ずるが故に、迹門にして不変真如の理円を明かすところを改めずして、己が当体、無作の三身と沙汰するが、本門の事円の三千の意なり。これ即ち桜梅桃李の己々の当体を改めずして無作の三身と開見すれば、これ即ち「量」の義なり。今、日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者は、無作の三身の本主なり

【32】御義口伝 御書787ページ・新版1094、1095ページ

方便品

☆是法住法位 世間相常住

☆この文は、衆生の心は本来仏なり

と説くを常住と云うなり。万法は元より覚の体なり

☆自身の仏乗を悟って自身の宮殿に入るなり。いわゆる、南無妙法蓮華経と唱え奉るは、自身の宮殿に入るなり

【33】御義口伝 御書788ページ・新版1097ページ

☆始めて我が心本来の仏なりと知るを、即ち「大歓喜」と名づく。いわゆる、南無妙法蓮華経は歓喜の中の大歓喜なり

【34】御義口伝 御書790ページ・新版1099、1100ページ

☆涌出品

昼夜常精進 為求仏道故

この文は、一念に億劫の辛労を尽くせば、本来無作の三身念々に起こるなり。いわゆる南無妙法蓮華経は精進行なり。

 寿量品

如来 如実知見 三界之相 無有生死

 この文は、万法を無作の三身と見るを、「如実知見(実のごとく知見したもう)」と云う。無作の覚体なれば、何によって生死有りと云わんか。

【35】御義口伝 御書792ページ・新版1103、1104ページ

☆久遠を悟るを、「身不動揺(身動揺せず)」と云うなり。惑障を尽くさずして寂光に入るを「三昧」とは云うなり。
 いわゆる、南無妙法蓮華経の「三昧」なり

☆法界の依正は妙法なる故に、平等一子の慈悲なり。依正・福智共に「無量」なり。いわゆる、南無妙法蓮華経は福智の二法なり

【36】御義口伝 御書797ページ・新版1110、1111ページ

☆宝浄世界の仏とは

☆母の胎内これなり。故に、父母は宝塔造作の番匠なり。

☆託胎の胎を宝浄世界と云う。故に、出胎するところを「涌現」と云うなり。およそ衆生の涌現は地輪より出現するなり。故に「従地涌出(地より涌出す)」と云うなり。
  妙法の宝浄世界なれば、十界の衆生の胎内は皆これ宝浄世界なり。蓮華の宝浄なれば、十界の胎内ことごとく無垢清浄の世界なり。妙法の地輪なれば、十界に亘るなり。蓮華の地なれば、清浄地なり。妙法の宝浄なれば、我らが身体は清浄の宝塔なり。妙法蓮華の涌出なれば、十界の出胎の産門、本来清浄の宝塔なり。

☆かかる宝塔も妙法蓮華経の五字より外はこれ無きなり。妙法蓮華経を見れば、宝塔即ち一切衆生、一切衆生即ち南無妙法蓮華経の全体なり

【37】御講聞書 御書813ページ・新版1130ページ

☆父母の成仏は、即ち子の成仏なり。子の成仏は、即ち父母の成仏なり。

☆法華経の行者は男女ことごとく世尊にあらずや。

【38】御講聞書 御書815ページ・新版1132、1133ページ

☆「本末究竟等」の一言とも云うなり。真実の義には南無妙法蓮華経の一言なり。「本」とは凡夫なり、「末」とは仏なり。「究竟」とは、生仏一如なり。生仏一如の如の体は、いわゆる南無妙法蓮華経これなり

☆詮ずるところ、日蓮等の類いの心は、「唯仏」は釈尊、「与仏」は日蓮等の類いのことなるべし

☆「与仏」と云うは、法華経の行者の男女のことなり

【39】御講聞書 御書816ページ・新版1134、1135ページ

☆権教は不平等の経なり、法華経は平等の経なり。今、日蓮等の類いは、真実、「自証無上道 大乗平等法」の行者なり。いわゆる、南無妙法蓮華経の大乗平等法の広宣流布の時なり

☆今、日蓮等の類いもかくのごとし。日蓮も生年三十二までは畏れありき。「もしや、この南無妙法蓮華経を弘めずしてあらんずらん」と畏れありき。今は即ちこの畏れ無し。既に、末法の当時、南無妙法蓮華経の七字を日本国に弘むるあいだ畏れなし。終には一閻浮提に広宣流布せんこと一定なるべし

【40】御講聞書 御書834ページ・新版1161ページ

☆詮ずるところ、蓮華は水をはなれて生長せず。「水」とは、南無妙法蓮華経これなり。本化の菩薩は、「蓮華」のごとく、過去久遠より已来、本法所持の菩薩なり。「蓮華在水」とは、これなり。

詮ずるところ、この「水」とは、我ら行者の信心なり。「蓮華」は、本因本果の妙法なり。信心の水に妙法蓮華は生長せり。「地」とは、我ら衆生の心地なり。「涌出」とは、広宣流布の時、一閻浮提の一切衆生、法華経の行者となるべきを、「涌出」とは云うなり

【41】御講聞書 御書838ページ・新版1168ページ

☆無作の応身は我ら凡夫なりという事
  仰せに云わく、釈に云わく「凡夫もまた三身の本を得たり」云々。この「本」の字は、応身のことなり。されば、本地無作の本覚の体は、無作の応身をもって本とせり。よって、我ら凡夫なり。応身は物に応う身なり。その上、寿量品の題目を唱え出だし奉るは、真実に応身如来の慈悲なり

【42】教行証御書 1,281ページ・新版1674ページ

☆地涌千界出現して、濁悪末代の当世に別付嘱の妙法蓮華経を一閻浮提の一切衆生に取り次ぎ給うべき仏の勅使

【43】御講聞書 御書840ページ・新版1170~1172ページ

☆日蓮の己証の事
  仰せに云わく、寿量品の南無妙法蓮華経これなり。地涌千界の出現にして、末代当世の別付嘱の妙法蓮華経の五字を一閻浮提の一切衆生に取り次ぎ給うべき、仏の勅使の上行菩薩なり云々。取り次ぎとは、取るとは釈尊より上行菩薩の手へ取りたもう。さて、上行菩薩、また末法当今の衆生に取り次ぎたまえり。これを取り次ぐとは云うなり。広くは、末法万年までの取り次ぎ取り次ぎなり。これを「無令断絶(断絶せしむることなかれ)」とは説かれたり。また結要の五字とも申すなり云々。上行菩薩取り次ぎの秘法は、いわゆる南無妙法蓮華経これなり

☆秘法とは、南無妙法蓮華経これなり。秘すべし、秘すべし

☆日蓮が弟子は臆病にては叶うべからざる事
  仰せに云わく、この意は、問答対論の時は、爾前・迹門の釈尊をも用いるべからざるなり。これは、臆病にては、釈尊を用いまじきかなんど思うべき故なり。釈尊をさえ用いるべからず。いかにいわんや、その以下の等覚の菩薩をや、まして謗法の人々においてをや。いわゆる南無妙法蓮華経の大音声を出だして諸経・諸宗を対治すべし。「巧於難問答 其心無所畏(難問答に巧みにして、その心に畏るるところ無し)」とは、これなり云々。
一、妙法蓮華経の五字を眼と云う事

【44】御講聞書 御書844ページ・新版1177ページ

☆詮ずるところ、日蓮が意に云わく、法華経の極理とは、南無妙法蓮華経これなり。一切の功徳の法門、釈尊の因行果徳の二法、三世十方の諸仏の修因感果、法華経の文々句々の功徳を取り聚めて、この南無妙法蓮華経と成したまえり。ここをもって、釈に云わく「総じて一経を結するに、ただ四つあるのみ。その枢柄を撮って、これを授与す」云々。上行菩薩に授与したもう題目の外に、法華経の極理はこれ無きなり

【45】御講聞書 御書846ページ・新版1181ページ

☆無作の応身をもって衆生無辺誓願度というなり

☆詮ずるところ、四弘誓願の中には衆生無辺誓願度をもって肝要とするなり。今、日蓮等の類いは、南無妙法蓮華経をもって衆生を度する、これより外は所詮なきなり。「速成就仏身(速やかに仏身を成就す)」これなり

☆「能」というは如来なり、「所」とは衆生なり。能所各別するは権教の故なり。法華経の心は能所一体なり

【46】

百六箇抄 863ページ、新版2210ページ

全く余行に分かたざりし妙法は本、唱うる日蓮は迹なり。手本には不軽菩薩の二十四字これなり。またその行儀これなり云々。
余行に渡らざる法華経の本迹
   義理上に同じ。直達の法華は本門、唱うる釈迦は迹なり。今、日蓮が修行は久遠名字の振る舞いに介爾ばかりも違わざるなり。
下種の法華経の教主の本迹
   自受用身は本、上行日蓮は迹なり。我が内証の寿量品とは、脱益寿量の文底の本因妙のことなり。その教主は某なり。
下種の今此三界の主の本迹
   久遠元始の「天上天下唯我独尊」は日蓮これなり。久遠は本、今日は迹なり。三世常住の日蓮は名字の利生なり。

百六箇抄 御書865ページ、新版2212ページ

☆七字は本なり、余の十界は迹なり。

百六箇抄 御書868ページ、新版2216ページ

☆唱え奉る妙法仏界は本、唱うる我ら九界は迹なり

本因妙抄 御書871ページ・新版2220ページ

☆宗の四重とは、一に因果異性の宗。方便権教なり。二に因果同性の宗。これ迹門なり。三に因果並常の宗。即ち本門なり。四に因果一念の宗。文に云わく「介爾も心有らば、即ち三千を具す」。これ即ち末法純円の結要付嘱の妙法なり

【47】本因妙抄 御書872ページ・新版2223ページ

☆口唱首題の理に造作無し。今日熟脱の本迹二門を迹となし、久遠名字の本門を本となす。信心強盛にして、ただ余念無く南無妙法蓮華経と唱え奉れば、凡身即仏身なり。これを天真独朗の即身成仏と名づく。

【48】本因妙抄 御書875ページ・新版2226ページ

☆久遠元初の自受用報身の無作本有の妙法を直ちに唱う

【49】本因妙抄 877ページ・新版2227ページ

☆問うて云わく、寿量品文底の大事という秘法、いかん。
 答えて云わく、唯密の正法なり。秘すべし、秘すべし。一代応仏のいきをひかえたる方は理の上の法相なれば、一部共に理の一念三千、迹の上の本門寿量ぞと得意せしむることを脱益の文の上と申すなり。文の底とは、久遠実成の名字の妙法を余行にわたさず、直達の正観、事行の一念三千の南無妙法蓮華経これなり。

【50】始聞仏乗義 御書983ページ・新版1326ページ

☆法身とは法身如来、般若とは報身如来、解脱とは応身如来なり。我ら衆生、無始曠劫より已来、この三道を具足し、今、法華経に値って三道即三徳

【51】治病大小権実違目 御書997ページ・新版1331ページ

☆善と悪とは無始よりの左右の法なり。権教ならびに諸宗の心は、善悪は等覚に限る。もししからば、等覚までは互いに失有るべし。法華宗の心は一念三千なり。性悪・性善、妙覚の位になお備われり。元品の法性は梵天・帝釈等と顕れ、元品の無明は第六天の魔王と顕れたり。善神は悪人をあだむ。悪鬼は善人をあだむ。

【52】曾谷入道殿許御書 1,030ページ・新版1397ページ

☆大覚世尊、仏眼をもって末法を鑑知し、この逆・謗の二罪を対治せしめんがために、一大秘法を留め置きたもう

【53】曾谷入道殿許御書 1,032ページ・新版1399ページ

☆その時に、大覚世尊、寿量品を演説し、しかして後に十神力を示現して、四大菩薩に付嘱したもう。その所嘱の法は何物ぞや。法華経の中にも、広を捨てて略を取り、略を捨てて要を取る。いわゆる、妙法蓮華経の五字、名・体・宗・用・教の五重玄なり

☆ただこの一大秘法を持って本の処に隠居するの後、仏の滅後正像二千年の間においていまだ一度も出現せず。詮ずるところ、仏専ら末世の時に限ってこれらの大士に付嘱せし故なり。

【54】

法蓮抄 御書1,049ページ、新版1425ページ

☆五種法師の中には、書写は最下の功徳なり。いかにいわんや、読誦なんど申すは無量無辺の功徳なり。今の施主、十三年の間、毎朝読誦せらるる自我偈の功徳は、「ただ仏と仏とのみ、いまし能く究尽したまえり」なるべし。
 夫れ、法華経は一代聖教の骨髄なり。自我偈は二十八品のたましいなり。三世の諸仏は寿量品を命とし、十方の菩薩も自我偈を眼目とす。

曾谷殿御返事 御書1,060ページ・新版1440ページ

☆法華経の題目は一切経の神、一切経の眼目なり。
 大日経等の一切経をば法華経にてこそ開眼供養すべきところ

【55】阿仏房御書 1,304ページ・新版1732、1733ページ

☆法華経を持つ男女のすがたより外には宝塔なきなり。もししからば、貴賤上下をえらばず、南無妙法蓮華経ととなうるものは、我が身宝塔にして我が身また多宝如来なり。妙法蓮華経より外に宝塔なきなり。法華経の題目、宝塔なり。宝塔また南無妙法蓮華経なり。今、阿仏上人の一身は地・水・火・風・空の五大なり。この五大は題目の五字なり。
 しかれば、阿仏房さながら宝塔、宝塔さながら阿仏房、これより外の才覚無益なり。聞・信・戒・定・進・捨・慙の七宝をもってかざりたる宝塔なり。多宝如来の宝塔を供養し給うかとおもえば、さにては候わず、我が身を供養し給う。我が身また三身即一の本覚の如来なり。
 かく信じ給いて南無妙法蓮華経と唱え給え。ここさながら宝塔の住処なり。経に云わく「法華経を説く処有らば、我がこの宝塔その前に涌現す」とは、これなり。
 あまりにありがたく候えば、宝塔をかきあらわしまいらせ候ぞ。子にあらずんば、ゆずることなかれ。信心強盛の者にあらずんば、見することなかれ。出世の本懐とは、これなり。

【56】中興入道消息 御書1,332ページ・新版1768ページ

☆建長五年四月二十八日より今弘安二年十一月まで二十七年が間、退転なく申しつより候

☆すでに日本国十分が一分は一向南無妙法蓮華経

【57】生死一大事血脈抄 御書1,336ページ・新版1774ページ

☆生死一大事の血脈とは、いわゆる妙法蓮華経これなり。その故は、釈迦・多宝の二仏、宝塔の中にして上行菩薩に譲り給いて、この妙法蓮華経の五字、過去遠々劫より已来、寸時も離れざる血脈なり。
 妙は死、法は生なり。この生死の二法が十界の当体なり。またこれを当体蓮華とも云うなり

【58】生死一大事血脈抄 御書1,337ページ・新版1774、1775ページ

☆天地・陰陽、日月・五星、地獄乃至仏果、生死の二法にあらずということなし。かくのごとく、生死もただ妙法蓮華経の生死なり。天台、止観に云わく「起はこれ法性の起、滅はこれ法性の滅なり」云々。釈迦・多宝の二仏も生死の二法なり。
 しかれば、久遠実成の釈尊と皆成仏道の法華経と我ら衆生との三つ全く差別無しと解って妙法蓮華経と唱え奉るところを、生死一大事の血脈とはいうなり。このこと、ただ日蓮が弟子檀那等の肝要なり。法華経を持つとは、これなり。
 詮ずるところ、臨終只今にありと解って信心を致して南無妙法蓮華経と唱うる人を、「この人は命終して、千仏の手を授け、恐怖せず、悪趣に堕ちざらしめたもうことを為」と説かれて候。悦ばしいかな、一仏二仏にあらず、百仏二百仏にあらず、千仏まで来迎し、手を取り給わんこと、歓喜の感涙押さえ難し。

☆過去の生死、現在の生死、未来の生死、三世の生死に法華経を離れ切れざるを、法華の血脈相承とは云うなり。謗法不信の者は、「即ち一切世間の仏種を断ぜん」とて、仏に成るべき種子を断絶するが故に、生死一大事の血脈これ無きなり。
 総じて、日蓮が弟子檀那等、自他・彼此の心なく、水魚の思いを成して、異体同心にして南無妙法蓮華経と唱え奉るところを、生死一大事の血脈とは云うなり。しかも、今、日蓮が弘通するところの所詮これなり。もししからば、広宣流布の大願も叶うべきものか

【59】生死一大事血脈抄 草木成仏口決 御書1,338ページ・新版1776、1777ページ

日本国の一切衆生に法華経を信ぜしめて、仏に成る血脈を継がしめんとするに、還って日蓮を種々の難に合わせ、結句この島まで流罪す。
 しかるに、貴辺、日蓮に随順し、また難に値い給うこと、心中思い遣られて痛ましく候ぞ。金は大火にも焼けず、大水にも漂わず、朽ちず。鉄は水火共に堪えず。賢人は金のごとく、愚人は鉄のごとし。貴辺あに真金にあらずや。法華経の金を持つ故か。経に云わく「衆山の中に須弥山はこれ第一なり。この法華経もまたかくのごとし」。また云わく「火も焼くこと能わず、水も漂わすこと能わず」云々。
 過去の宿縁追い来って、今度日蓮が弟子と成り給うか。釈迦・多宝こそ御存知候らめ。「在々諸仏土、常与師俱生(いたるところの諸仏の土に、常に師とともに生ず)」、よも虚事候わじ。

☆強盛の大信力を致して、南無妙法蓮華経臨終正念と祈念し給え。生死一大事の血脈、これより外に全く求むることなかれ。煩悩即菩提・生死即涅槃とは、これなり。信心の血脈なくんば、法華経を持つとも無益なり

☆妙法蓮華経これなり。妙法とは有情の成仏なり。蓮華とは非情の成仏なり。有情は生の成仏、非情は死の成仏、生死の成仏というが有情・非情の成仏のことなり。その故は、我ら衆生死する時、塔婆を立てて開眼供養するは、死の成仏にして草木成仏なり。

【60】祈祷抄 御書1,355ページ・新版597ページ

☆いかなる経文ぞや。もし証拠なくんば誰人か信ずべきや。かかる僻事をのみ構え申すあいだ、邪教とは申すなり

【61】諸法実相抄 御書1,358ページ・新版1788、1789ページ

☆方便品に云わく「諸法実相乃至本末究竟等」云々。この経文の意いかん。
 答えて云わく、下地獄より上仏界までの十界の依正の当体、ことごとく一法ものこさず妙法蓮華経のすがたなりという経文なり

☆妙法蓮華経こそ本仏にては御座しまし候え。経に云わく「如来の秘密・神通の力」、これなり。「如来の秘密」は体の三身にして本仏なり、「神通の力」は用の三身にして迹仏ぞかし。凡夫は体の三身にして本仏ぞかし、仏は用の三身にして迹仏なり

【62】諸法実相抄 御書1,359ページ・新版1789ページ

☆「本仏」というは凡夫なり、「迹仏」というは仏なり。しかれども、迷悟の不同にして生・仏異なるによって俱体俱用の三身ということをば衆生しらざるなり。
 さてこそ、諸法と十界を挙げて実相とは説かれて候え。実相というは、妙法蓮華経の異名なり。諸法は妙法蓮華経ということなり。地獄は地獄のすがたを見せたるが実の相なり。餓鬼と変ぜば、地獄の実のすがたにはあらず。仏は仏のすがた、凡夫は凡夫のすがた、万法の当体のすがたが妙法蓮華経の当体なりということを、諸法実相とは申すなり

【63】十八円満抄 御書1,367ページ・新版1802ページ

☆日蓮が己心相承の秘法、この答えに顕すべきなり。いわゆる南無妙法蓮華経これなり。
 問うて云わく、証文いかん。
 答えて云わく、神力品に云わく「その時、仏は上行等の菩薩に告げたまわく、要をもってこれを言わば乃至宣示顕説す」

【64】上野殿御消息 1,527ページ・新版1851ページ

☆父母の恩を報ぜよとは、父母の赤白二渧、和合して我が身となる。母の胎内に宿ること二百七十日、九月の間、三十七度、死ぬるほどの苦しみあり。生み落とす時、たえがたしと思い念ずる息、頂より出ずる煙、梵天に至る。さて生み落とされて乳をのむこと一百八十余石、三年が間は父母の膝に遊び、人となりて仏教を信ずれば、まずこの父と母との恩を報ずべし。父の恩の高きこと、須弥山なおひきし。母の恩の深きこと、大海還って浅し。相構えて父母の恩を報ずべし。

☆一切衆生の恩を報ぜよとは、されば、昔は一切の男は父なり、女は母なり。しかるあいだ、生々世々に皆恩ある衆生なれば、皆仏になれと思うべきなり。

【65】上野尼御前御返事 1,580ページ・新版1913ページ

☆蓮華と申す花は菓と花と同時なり。一切経の功徳は、先に善根を作して後に仏とは成ると説く。かかる故に不定なり。法華経と申すは、手に取ればその手やがて仏に成り、口に唱うればその口即ち仏なり。譬えば、天月の東の山の端に出ずれば、その時即ち水に影の浮かぶがごとく、音とひびきとの同時なるがごとし。故に、経に云わく「もし法を聞くことあらば、一りとして成仏せざることなけん」云々。文の心は、この経を持つ人は、百人は百人ながら、千人は千人ながら、一人もかけず仏に成ると申す文なり。

【66】白米一俵御書 1,597ページ・新版2053、2054ページ

☆法華経の第六の巻の「一切世間の治生産業は、皆実相と相違背せず」の経文に引き合わせて、心をあらわされて候には、彼々の二経は深心の経々なれども、彼の経々はいまだ心あさくして法華経に及ばざれば、世間の法を仏法に依せてしらせて候。法華経はしからず。やがて世間の法が仏法の全体と釈せられて候。爾前の経の心々は、心より万法を生ず。譬えば、心は大地のごとし、草木は万法のごとしと申す。法華経はしからず。心すなわち大地、大地則ち草木なり。
 爾前の経々の心は、心のすむは月のごとし、心のきよきは花のごとし。法華経はしからず。月こそ心よ、花こそ心よと申す法門なり。
 これをもってしろしめせ、白米は白米にはあらず、すなわち命なり

【67】唱法華題目抄 御書13ページ・新版18、19ページ

☆法華経の肝心たる方便・寿量の一念三千・久遠実成の法門は妙法の二字におさまれり

☆一切の諸の仏菩薩、十界の因果、十方の草木・瓦礫等、妙法の二字にあらずということなし

☆今、法華経は四十余年の諸経を一経に収めて、十方世界の三身円満の諸仏をあつめて釈迦一仏の分身の諸仏と談ずる故に、一仏一切仏にして、妙法の二字に諸仏皆収まれり。故に、妙法蓮華経の五字を唱うる功徳莫大なり。「諸仏・諸経の題目は法華経の所開なり。妙法は能開なり」としりて、法華経の題目を唱うべし。

【68】唱法華題目抄 御書16ページ・新版23ページ

☆ただ法門をもって邪正をただすべし。

【69】守護国家論 御書43ページ・新版390ページ

☆この悪比丘は、利養のための故に、この経を広宣流布すること能わず。

【70】御書148ページ・新版848ページ

☆文証無きは、ことごとくこれ邪偽なり。彼の外道に同じ

【71】開目抄上 御書200ページ・新版69、70ページ

☆法然等がごとくなる悪魔の身に入りたる者、法華経をつよくほめあげ機をあながちに下し、「理は深く解は微かなり」と立て、「いまだ一人も得る者有らず」「千の中に一りも無し」等とすかししもの

☆いわずば慈悲なきににたりと思惟するに、法華経・涅槃経等にこの二辺を合わせ見るに、いわずば今生は事なくとも後生は必ず無間地獄に堕つべし、いうならば三障四魔必ず競い起こるべしとしんぬ。二辺の中にはいうべし。

【72】開目抄上 御書208ページ・新版80ページ

☆善知識と申すは、一向師にもあらず一向弟子にもあらずあることなり

【73】開目抄下 御書228ページ・新版103、108ページ

☆出家の処に一切の悪人を摂む

【74】開目抄下 御書230ページ・新版111ページ

☆たれやの人か衆俗に悪口・罵詈せらるる。誰の僧か刀杖を加えらるる。誰の僧をか法華経のゆえに公家・武家に奏する。誰の僧か「しばしば擯出せられん」と度々ながさるる。日蓮より外に日本国に取り出ださんとするに人なし。
 日蓮は法華経の行者にあらず。天これをすて給うゆえに。誰をか当世の法華経の行者として仏語を実語とせん。仏と提婆とは身と影とのごとし。生々にはなれず。聖徳太子と守屋とは蓮華の華菓同時なるがごとし。法華経の行者あらば、必ず三類の怨敵あるべし。三類はすでにあり。法華経の行者は誰なるらん。求めて師とすべし。一眼の亀の浮き木に値うなるべし。

【75】開目抄下 御書232ページ・新版114ページ

☆詮ずるところは、天もすて給え、諸難にもあえ、身命を期とせん

☆善に付け悪につけ、法華経をすつるは地獄の業なるべし。大願を立てん。

☆種々の大難出来すとも、智者に我が義やぶられずば用いじとなり。その外の大難、風の前の塵なるべし。我日本の柱とならん、我日本の眼目とならん、我日本の大船とならん等とちかいし願いやぶるべからず。

【76】開目抄下 御書234ページ・新版116、117ページ

☆詮ずるところは子を念う慈念より外のことなし。念を一境にするは、定に似たり。専ら子を思うは、また慈悲にもにたり

☆諸経は智者なお仏にならず、この経は愚人も仏因を種うべし。「解脱を求めずとも、解脱に自ずから至る」等云々。
 我ならびに我が弟子、諸難ありとも疑う心なくば、自然に仏界にいたるべし。天の加護なきことを疑わざれ。現世の安穏ならざることをなげかざれ。我が弟子に朝夕教えしかども、疑いをおこして皆すてけん。つたなき者のならいは、約束せし事をまことの時はわするるなるべし。

【77】観心本尊抄 御書240ページ・新版125ページ

☆観心とは、我が己心を観じて十法界を見る、これを観心と云うなり。

☆法華経ならびに天台大師述ぶるところの摩訶止観等の明鏡を見ざれば、自具の十界・百界千如・一念三千を知らざるなり

【78】観心本尊抄 御書246ページ・新版134、135ページ

☆釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す、我らこの五字を受持すれば、自然に彼の因果の功徳を譲り与えたもう。
 四大声聞の領解に云わく「無上の宝珠は、求めざるに自ずから得たり」云々。我らが己心の声聞界なり。「我がごとく等しくして異なることなからしめん。我が昔の願いしところのごときは、今、すでに満足しぬ。一切衆生を化して、皆仏道に入らしむ」。妙覚の釈尊は我らが血肉なり。因果の功徳は骨髄にあらずや。
 宝塔品に云わく「それ能くこの経法を護ることあらば、則ちこれ我および多宝を供養す乃至また諸の来りたまえる化仏の諸の世界を荘厳し光飾したもう者を供養す」等云々。釈迦・多宝・十方の諸仏は我が仏界なり。その跡を紹継して、その功徳を受得す。「須臾もこれを聞かば、即ち阿耨多羅三藐三菩提を究竟することを得」とは、これなり。
 寿量品に云わく「しかるに、我は実に成仏してより已来、無量無辺百千万億那由他劫なり」等云々。我らが己心の釈尊は、五百塵点乃至所顕の三身にして無始の古仏なり。経に云わく「我は本菩薩の道を行じて、成ぜしところの寿命は、今なおいまだ尽きず、また上の数に倍せり」等云々。我らが己心の菩薩等なり。地涌千界の菩薩は己心の釈尊の眷属なり。例せば、太公・周公旦等は周武の臣下、成王幼稚の眷属、武内大臣は神功皇后の棟梁、仁徳王子の臣下なるがごとし。上行・無辺行・浄行・安立行等は我らが己心の菩薩なり。
 妙楽大師云わく「当に知るべし、身土は一念の三千なり。故に、成道の時、この本理に称って、一身一念法界に遍し」

【79】本尊問答抄 御書366ページ・新版303、304ページ

☆彼らは仏を本尊とするに、これは経を本尊とす。その義あるべし。
 問う。その義、いかん。仏と経といずれか勝れたるや。
 答えて云わく、本尊とは勝れたるを用いるべし

☆問うて云わく、しからば、汝、いかんぞ、釈迦をもって本尊とせずして、法華経の題目を本尊とするや。
 答う。上に挙ぐるところの経釈を見給え。私の義にはあらず。釈尊と天台とは、法華経を本尊と定め給えり。末代今の日蓮も、仏と天台とのごとく、法華経をもって本尊とするなり。その故は、法華経は釈尊の父母、諸仏の眼目なり。釈迦・大日、総じて十方の諸仏は、法華経より出生し給えり。故に今、能生をもって本尊とするなり。
 問う。その証拠、いかん。
 答う。普賢経に云わく「この大乗経典は、諸仏の宝蔵なり。十方三世の諸仏の眼目なり。三世の諸の如来を出生する種なり」等云々。また云わく「この方等経は、これ諸仏の眼なり。諸仏はこれに因って五眼を具することを得たまえり。仏の三種の身は、方等より生ず。これ大法印なり。涅槃海を印す。かくのごとき海中より能く三種の仏の清浄の身を生ず。この三種の身は、人天の福田、応供の中の最なり」等云々。これらの経文は、仏は所生、法華経は能生。仏は身なり、法華経は神なり。しからば則ち木像・画像の開眼供養はただ法華経にかぎるべし。しかるに、今、木画の二像をもうけて、大日仏眼の印と真言とをもって開眼供養をなすは、もっとも逆なり

【80】諸宗問答抄 382ページ・新版775ページ

☆もし無始無終の由を云っていみじき由を立て申さば、「必ず大日如来に限らず、我ら一切衆生、螻蟻蚊虻等に至るまで、みな無始無終の色心なり。衆生において有始有終と思うは、外道の僻見なり。汝外道に同ず、いかん」と云うべきなり

【81】主師親御書 386ページ・新版320ページ

☆我ら衆生、無始曠劫より已来、妙法蓮華経の如意宝珠を片時も相離れざれども、無明の酒にたぼらかされて、衣の裏にかけたりとしらずして、少なきを得て足りぬと思いぬ。南無妙法蓮華経とだに唱え奉りたらましかば速やかに仏に成る

【82】木絵二像開眼之事 468ページ・新版662、663ページ

☆木画の二像の仏の前に経を置けば、三十二相具足するなり

☆三十一相の仏の前に法華経を置きたてまつれば、必ず純円の仏なり云々。故に、普賢経に法華経の仏を説いて云わく「仏の三種の身は、方等より生ず」文。この「方等」は方等部の方等にあらず。法華を方等というなり。また云わく「この大乗経は、これ諸仏の眼なり。諸仏はこれに因って五眼を具することを得たまえり」等云々。
 法華経の文字は、仏の梵音声の不可見無対色を可見有対色のかたちとあらわしぬれば、顕・形の二色となれるなり。滅せる梵音声かえって形をあらわして、文字と成って衆生を利益するなり。人の声を出だすに二つあり。一には、自身は存ぜざれども、人をたぶらかさんがために声をいだす。これは随他意の声。自身の思いを声にあらわすことあり。されば、意が声とあらわる。意は心法、声は色法。心より色をあらわす。また声を聞いて心を知る。色法が心法を顕すなり。色心不二なるがゆえに而二とあらわれて、仏の御意あらわれて法華の文字となれり。文字変じてまた仏の御意となる。されば、法華経をよませ給わん人は、文字と思しめすことなかれ。すなわち仏の御意なり。故に、天台釈して云わく「請を受けて説く時は、ただこれ教意を説くのみ。教意はこれ仏意なり。仏意は即ちこれ仏智なり。仏智至って深し。この故に三止四請す。かくのごとき艱難は、余経に比ぶるに、余経は則ち易し」文。この釈の中に「仏意」と申すは、色法をおさえて心法という釈なり。
 法華経を心法とさだめて三十一相の木絵の像に印すれば、木絵二像の全体、生身の仏なり。草木成仏といえるはこれなり。故に、天台は「一色一香も中道にあらざることなし」と云々

【83】法華初心成仏抄 544ページ・新版686ページ

☆経に云わく「法に依って人に依らざれ。義に依って語に依らざれ。智に依って識に依らざれ。了義経に依って不了義経に依らざれ」文。この文の心は、菩薩・人師の言には依るべからず、仏の御定を用いよ。

【84】御義口伝 御書708・新版984ページ

☆色心不二なるを一極と云うなり。釈に云わく「一極に帰せしむるが故に仏乗と云う」

【85】御義口伝 御書710ページ・新版987ページ

☆煩悩の薪を焼いて、菩提の慧火現前するなり。煩悩即菩提と開覚する

【86】御書738、新版1029ページ

☆「菩薩」とは、仏果を得る下地なり。

【87】御義口伝 御書748ページ・新版1043ページ

☆「作師子吼(師子吼を作す)」の事

御義口伝に云わく、「師子吼」とは、仏の説なり。説法とは法華、別しては南無妙法蓮華経なり。「師」とは師匠授くるところの妙法、「子」とは弟子受くるところの妙法、「吼」とは師弟共に唱うるところの音声なり。「作」とは、「おこす」と読むなり。末法にして南無妙法蓮華経を作すなり

【88】御義口伝 御書750ページ・新版1045ページ

☆御義口伝に云わく、妙法蓮華経を安楽に行ぜんこと、末法において、今、日蓮等の類いの修行は、妙法蓮華経を修行するに、難来るをもって安楽と意得べきなり。

【89】御書766、新版1067ページ

末法の「仏」とは、凡夫なり、凡夫僧なり。「法」とは、題目なり。「僧」とは、我ら行者なり。仏とも云われ、また凡夫僧とも云わるるなり

【90】御義口伝 御書789ページ・新版1097ページ

☆我らが一念の妄心の外に仏心無し。九界の生死が真如なれば、即ち「自在」なり。いわゆる、南無妙法蓮華経と唱え奉るは、即ち「自在」なり

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